藤原鎌足の娘が唐の皇帝に嫁いでいましたが、兄藤原不比等が亡父藤原鎌足の供養のため奈良興福寺を建立すると聞き、唐に伝わる面向不背(釈迦三尊が刻まれ、どこから見ても背を向けない)の宝珠を奈良に送り届ける途中、志度浦の沖で龍神に襲われてしまいました。
藤原不比等は宝珠を取り返すため、志度に来て、志度浦の海女と通じ一子房前をもうけます。
藤原不比等は海女に事情を打ち明け、宝珠を取り返すことができれば房前を藤原家の後嗣にするといいました。
海女は子供の出世のためならと命綱を腰に巻き、海底に潜っていきました。
見事に宝珠は取り戻しましたが、龍神に覚られた海女は自分の乳房をさいて、龍神の嫌う血を流し、宝珠を乳房の中にかくして死体となって引き上げられました。
藤原不比等は、海女の真情に心を打たれ、海辺に墓をたて堂宇を建立して「死度寺」としました。
藤原不比等は心を残しながらも、宝珠と共に房前を伴い、奈良の都へ帰って行きました。
それから13年後、持統7年藤原北家の祖となった房前は、僧行基を伴って志度浦を訪れ、母供養のため千基の石塔を建立したという。
今も、その千基の石塔の一部といわれる石塔20基が残っています。
|