仁明天皇、勅使を遣わし弔問 空海の死の4日後の25日、仁明天皇の勅使が淳和上皇の弔書を携えて弔問しました。 「続日本後紀」によれば、その弔書には、空海のことを「真言の洪匠、密宗の宗師」とよび、「高野山が都から遠く、都に訃報が届くのが遅かったので、荼毘のお手伝いができなかった」と書かれています。 つまり、公文書である「続日本後紀」によれば、空海は火葬されたとされていますが、今となっては詳細はわかりません。