昔むかし、田北村に銅蔵という百姓が住んでおったそうな。
銅蔵は、毎年夏に起こる水不足を何とかしたいと思うておったそうじゃ。
そこで銅蔵は、目佐川からの水を田北へ流れこむように、一人で計画をたて、実行しようとしたそうじゃ。
ところが、そんな大工事を役人にも届けず勝手にやろうとしたために、捕らえられ死罪を言い渡されたんじゃそうな。
ついに、銅蔵が死刑というその日、一人の若者が役人の前へ出て
「徳島の代官所へ行って、命ごいをお願いしてきます。その結果がわかるまで、どうか待ってくだされ」と言うと、村の人達もみんな一緒になって、役人にお願いしたそうじゃ。
役人も村人の気持ちに心うたれて、願いをきいて待ってやる事にしたそうじゃ。
若者は馬に乗り、急いで徳島の代官所へ行って、銅蔵の命ごいを代官さまにお願いしたところ、代官さまも銅蔵がしたことは村のためだと判ってくれて、死罪の中止を決め、代官所の使者を田北につかわしたそうじゃ。
田北では、みながその結果を、固唾を呑んで待っておった。
代官所の使者の馬が、はるかかなたに見えた時、村人たちが、
「馬がきた、馬がきた」と言ったので、この地を「きた馬」(北馬)と呼ぶようになったそうじゃ。
さて、代官所の使者は、遠くから「おーい待て、おーい待て」と大声で叫び続けておったんじゃが、役人はそれを「おーいうて、おーいうて」と聞き違え、銅蔵の首をはねてしもうたんじゃと。
銅蔵の首がはねられた原っぱは、それから銅蔵原と呼ばれるようになり、今も小松島の坂野町に残っておるそうじゃ。
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