泰範
空海の下におくった最澄の弟子泰範・円澄・光定らは金剛界灌頂をうけました。
彼らは前年の12月に胎蔵界灌頂をうけているので、両部の灌頂を受け終わったことになります。
円澄らはその後、最澄の比叡山に戻りましたが、泰範は高雄山寺の空海のもとに留まりました。
泰範は、最澄が自分の後継者として比叡山の総別当にしたいと思っているほどの高弟でした。
しかし、弘仁3年6月には、「泰範自身の不都合により衆僧に迷惑をかけた」という理由で最澄に休暇を願い出て自坊へ戻っていました。
最澄の泰範に対する高評価の意思は変わらず、最澄は慰留しました。
この時期の流れをまとめると
弘仁3年6月 泰範、最澄に暇を請い、自坊に戻る
弘仁3年6月 最澄、すぐさま手紙で慰留
弘仁3年10月27日 最澄、空海を乙訓寺に訪ねる
弘仁3年10月29日 空海、乙訓寺から高雄山寺へ環住
弘仁3年11月15日 最澄ら金剛界灌頂をうける
この時、最澄は泰範に一緒に胎蔵界灌頂を受けようではないかと
2度にわたり勧誘しましたが、泰範は断っています。
弘仁3年12月14日 最澄ら胎蔵界灌頂をうける
泰範、今回は最澄の誘いを受け、灌頂をうける。
最澄らはいったん、比叡山に戻るが、泰範は自主的に空海のもとに残る。
弘仁3年12月23日 最澄が空海のもとに留まった泰範に手紙を送る
その手紙で、天台宗を後世に伝えることを忘れてくれるなと頼んでいる。
弘仁4年1月18日 円澄ら弟子を空海のもとに送る
この時同時に、「泰範もたのむ」と依頼。
以前、最澄が和気広世から贈られ高雄山寺にそのままある厨子(文書棚)を
泰範に自由に使わせてやって欲しいとの旨を高雄山寺三網に依頼。
また、比叡山の経費で高雄山寺に泰範の書斎を建てたいとも依頼。
弘仁4年3月6日 泰範、円澄ら金剛界灌頂をうける
円澄らは受法後、比叡山に戻るが、泰範はそのまま高雄山寺にとどまる。
以上のようになります。
この後も、最澄は自分のいっさいを相続させようとしている泰範に比叡山帰山を求める手紙を送りますが、泰範は戻りませんでした。
この時期、最澄は空海から頻繁に借経していましたが、両者の間柄がいちおうおだやかだったのは、ほぼ弘仁3年までで、その後はこの泰範事件を契機に両者の関係は悪化していきます。
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