東国布教
空海は、常陸の徳一、下野の広智、甲斐の藤原真川(まさかわ)らに書状を送って、空海が唐から請来した密教経典の書写や東国における布教の協力をお願いしています。
日光開山の祖勝道の件とあわせて、空海の名声の東国への広がりを感じます。
この空海の行動に刺激を受けてのことかどうかは解りませんが、最澄はこの年の後半から生涯最大の東国巡化の旅に出ています。
最澄の天台宗の体系が旧仏教と異質であることを政治的にもはっきりとさせるため比叡山に戒壇を設けることを国家に認めさせようとしていた時期です。
天台宗の理解を地方の有力寺院に植え付けるための旅は、この年の2年前の九州から始まっていましたが、今回は下野の薬師寺を中心に美濃、信濃、上野、下野を廻り、翌年弘仁7年2月に比叡山に戻っています。
最澄が「依憑天台集」を発表し、奈良仏教勢力および真言諸宗への批判を展開し、弘仁8年2月には、法相宗の常陸の徳一との間で論争が始まります。
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