昔むかし、今の高松市がまだ「野原の郷」と呼ばれていた頃のお話じゃ。
ある日、西浜の浜辺に一艘の小船が流れ着いたそうな。
浜の漁師が小船をのぞいてみると、中にはきれいなお姫様と二人のお供の者がぐったりとしてたおれておった。
漁師はお姫様たちを家に連れ帰り、看病した。
元気を取り戻したお姫様達の話によれば、このお姫様はどうやら戦に負けた平家一門のお姫様で、追手を逃れてここまで流されてきたという。
漁師は、そんなお姫様達の身の上をあわれんで、お世話をしておったが、そのうち、お姫様たちは西浜で暮らすようになったそうじゃ。
そうこうしているうち、数年が過ぎ、すっかり浜での生活に慣れたお姫様は、お供の者が取った魚を売りに出るようになったそうじゃ。
お姫様は、魚をいっぱい入れたたらいを頭に乗せて、村から村へと売り歩いたそうじゃ。
ところが、村の人たちはきれいなお姫様に見とれてしまい、魚は一匹も売れない。
困ったお姫様は、手拭いでほおかむりをして売りに行くことにしたそうな。
すると、売れるわ、売れるわ。
おもしろいように魚が売れたのじゃった。
やがてお姫様のうわさがひろがり、他の女たちもお姫様の真似をしてたらいを頭に乗せ、魚を売って歩くようになったそうじゃ。
これが今も讃岐に残る「いただきさん」(頭にタライをのせて魚を売る女の人、現在は手押し車や自転車のサイドカーに魚を積んで売り歩く人)の始まりといわれておる。
こうして月日は流れ、年をとったお姫様は、毎日浜で細糸をつむぐようになったそうじゃ。
そして弘和2年、67歳でお姫様は亡くなったそうじゃ。
お姫様が亡くなった後も、浜の人たちはお姫様の徳をしのんで、お姫様が糸をつむいでおった浜を「糸より浜」と呼ぶようになったんじゃと。
それに合わせて、いつしかお姫様も「糸より姫」と呼ばれるようになったそうじゃ。
高松市の西浜にはお姫様の銅像が建てられて、今も、糸より姫を祭ったお社も残っておる。
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