昔、弘法大師が巡錫の折、伊予の国上浮穴郡荏原(現在の愛媛県松山市恵原町へ立ち寄られた時、1人の童子が弘法大師の前に現れ、
「ここに罪深い人が住んでおります。改心させて来世の鑑(先達)にしてはいかがですか」
と告げると何処となく去って行きました。
すると豪雨になり、弘法大師は徳盛寺に宿を請われました。
弘法大師が本堂でお経を唱えておりますと、文殊菩薩さまが現れました。
先程の童子は文殊菩薩さまの化身で、私を導き教えを下さったと弘法大師は悟られました。
その後、徳盛寺を文殊院と呼ぶようになりました。
この村には、衛門三郎という強欲な長者が住んでおりました。
弘法大師は、衛門三郎の門前で托鉢の修行を、数回、7日間行いましたが欲深い衛門三郎は、追い帰しました。
そしてある時、衛門三郎が竹箒で弘法大師をたたくと、弘法大師が手に持っていました鉄鉢に当たって八つに割れてしまいました。
すると、八つの欠片は光明を放ちながら南の空に飛んでいき、南の山々の中腹から雲が湧き出てきました。
弘法大師は不思議に思い、山に登ってみますと、八つの窪みが出来ておりました。
三鈷でご祈念すると、1番目の窪みからは風が吹き、2番目、3番目のくぼみから水が湧き出て来ました。
この水は八降山八窪弘法大師御加持水として涸れることなく、いまも文珠院の山中に湧いています。
衛門三郎には、男の子5人と女の子3人おりましたが、弘法大師をたたいた翌日、長男が熱を出して病気になり、亡くなってしまいました。
その後も、八日の間に8人の子供達が次々と亡くなってしまいました。
衛門三郎は毎日毎日泣き暮らしておりました。
弘法大師は罪の無い子供達を不憫に思い、山の麓に行き手に持っております錫杖で土を跳ねますと、その夜、土が大空高く飛んで行き、お墓の上に積み重なっていきました。(このお墓が八塚と呼ばれ、今も文殊院の境外地に松山市の文化財に指定され残っています。)
そして、衛門三郎8人の子供菩提供養の為に、延命子育地蔵菩薩さまと自分の姿を刻み供養をしました。
又、法華経一字一石を写され、5番目の子供の塚に埋め、子供の供養を行なって文殊院を後に旅立ちました。
旅の僧を弘法大師と知り、前非を悔いた衛門三郎は子供のお位牌の前で、奥さんに、
「お大師さまに会って罪を許していただくまでは家には帰って来ません」
と別れの水盃をいたしました。
白衣に身を包み、手には手っ甲、足には脚絆、頭には魔除けの笠をかぶり、右の手に金剛杖を持って我が家を後に旅立ちました。
この姿が、お遍路さんの姿の始まりといわれています。
衛門三郎は、文殊院に弘法大師を訪ねましたが、旅立ったあとでした。
紙に自分の住所、氏名、年月日を書き、弘法大師がこの札を見ると衛門三郎がお参りした事がわかりますようにと、お札をお堂に張りました。
(このお札を「せば札」といい、現在のお納札のもとといわれています)
やがて、8年の歳月がたちました。
その間、衛門三郎は四国寺院を20回巡りましたが、弘法大師には巡り会えませんでした。
832年(閏年)、徳島の切幡寺から逆に巡るとお大師さまに会えると思い逆回り(逆打)を始めました。
しかし、阿波の国(徳島県)の焼山寺の麓へ差し掛かると足腰立たず、衛門三郎は倒れてしまいました。
すると、死を目前にした衛門三郎の前に弘法大師が姿を現し、
「よくここまで歩んで来ましたね、今までの罪はもう無くなっています。しかし、貴殿の生命はもう尽きようとしています。何か願い事が有るならば1つだけ、叶えてあげましょう」
と言われました。
衛門三郎は
「できる事でしたら、故郷伊予の国主河野さまの嫡男に生まれ変わらして下さい」
とたのみました。
弘法大師が、小石に「衛門三郎再来」と書き手に握らせますと、衛門三郎は亡くなりました。
弘法大師は、衛門三郎が持っていました金剛杖をお墓の上に逆に立て供養しました。
後に、この杖から芽が出てきて大きな杉の木になりました。
(現在杖杉庵に2代目の杉の木が生えています)
また弘法大師は、文殊院に衛門三郎のお位牌を持って来られ、子供のお位牌と一緒に本堂で衛門三郎家の悪い先祖の因縁を切るために、因縁切りの法を権修しました。
その後、伊予の領主・河野伊予守左右衛門介越智息利に玉のような男の子(息方君)が誕生しましたが、その子の片手が開きません。
若君3歳の春の事、桜の花見の席で南(文殊院)に向かって両手を合せ、南無大師遍照金剛とさんべんお唱えになりました。
すると、手がぱっと開き、その手の中から小さな玉の石が出て来ました。
家臣が拾って見ますと、「衛門三郎再来」と書かれていました。
その石を安養寺へ持って行って納めました。以来、安養寺を石手寺と改めました。
若君は、衛門三郎の話を聞き、民、百姓に喜ばれる政(まつりごと)をしました。
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