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槇尾山寺での空海

九州を離れた空海は、和泉国(大阪府南部)の槇尾山寺にはいります。

槇尾山寺は798年(延暦17)に奈良の高僧勤操により空海が沙弥戒をうけた場所でした。
その時と変わらず当時も槇尾山寺は勤操
が管理していました。

当時の仏教界の状況は、朝廷の厚い信頼を得ている最澄と奈良の仏教勢力は敵対関係にありました。

最澄に押されっぱなしで、旧仏教という位置まで貶められてた奈良勢力にしてみれば、私度僧の頃から勤操と縁の深い空海が、最澄以上に斬新な体系である正統密教の正嫡として帰国したことは、小躍りするほど嬉しい出来事であったのかもしれません。
最澄の天台宗が奈良勢力を全否定していることに比べて、空海の密教は包容力があるため奈良六宗と正面からぶつかることがなかったことも幸いだったのではないかといわれています。

槇尾山寺に入った空海は、唐から持ち帰った経巻等を整理しつつ、金剛頂経系密教(金剛界)と大日経系密教(胎蔵界)の二つの密教思想を一つの体系に創り上げる(「両部不二」)という教義を発展させる作業をしていたと考えられています。

また、この時期、大学入学前の空海の家庭教師を勤めた叔父阿刀大足が空海の元に身を寄せることとなっていました。
藤原家の内紛に発する事件で、伊予親王が謀反人とされてしまい、伊予親王の侍講(家庭教師)であった阿刀大足も都を脱出したのでした。
とばっちりを受けた上に、政治犯に近い立場となった阿刀大足は行き場を失い、槇尾山寺の空海を訪ね、庇護されることとなったのです。

阿刀大足は830年(天長7年)に87歳で亡くなるまで、空海の側で俗別当(事務長)のような仕事をしていました。
その後、阿刀家は京都の東寺の俗別当を代々務めて、それは明治時代にまで到ったそうです。



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