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四国八十八ヶ所人巡り
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幾多の思い出を運んだ
ラストキャプテン!

最後の船長・村井久
四国香川県丸亀市在住の普通の人。
国立弓削商船高校卒業後、外国航路乗組員を6年間経験。
昭和48年に旧国鉄入社、宇高連絡船の航海士を務め、その後「讃岐丸」の船長となる。
瀬戸大橋の開通に伴い廃止となったJR宇高連絡船「讃岐丸」の最後の船長として、歴史的な経験者となるが、現在は四国丸亀で普通の人として孫達に囲まれて暮らしている。

とってもユニークな普通の人 〜お2人目〜

昭和63年瀬戸大橋の開通でその歴史に終止符を打った
宇高連絡船

風光明媚な瀬戸内海を航行し、本州岡山宇野と四国讃岐高松を結ぶ「海の鉄道」といわれた宇高連絡船は、明治43年の航路開設以来、乗客輸送数約2億5000万人、運行回数約100万1000回(地球を約530周分)、四国の文化や経済の発展に尽くすとともに、多くの人々の旅情をかきたて、多くの人々の思い出を紡ぎ出した。

このJR宇高
連絡船(讃岐丸)最後の船長が村井久さんだ。



「いいオモイをする前に、降りてしまいましたので。」(笑)
連絡船勤務の前の外国航路時代の楽しい思い出を教えて頂けますか?との問いに、柔和な笑顔で村井さんが答えてくれた。

村井さんが商船学校を出た頃は、外国航路の乗組員全員が日本人という時代。
まさに先輩たちにもまれにもまれて、仕事に追われる毎日。
異国の港に着いても、やるべき仕事は山積みで、陸へ上がるのはもちろん先輩から。
中東への航海だと船の甲板はフライパンのように熱く、下手な転び方をすれば即火傷の危険、停泊は24時間しかなく、仕事を片付けて陸へ上がろうと思えば、まさに睡眠時間を削って上がるしかないという状態!
「睡眠不足のまま、勤務に戻って、あまりの眠さのために頭がぼぉ〜として簡単な引き算ができなくて、こっぴどく怒られた」こともあったそうだ。




外国航路を6年間経験した後、長男ということもあり内航路へ転身、輸送量がピークに達しようとしていた宇高連絡船の船員として旧国鉄に入社した。

村井さんは入社の際の面接で「瀬戸大橋ができれば、乗る船がなくなる。その時は、青函連絡船かどこか他の所へ行ってもらう可能性もある」と言われ「解りました。どこへでも行きます!」と答えていたが、この頃はまさか自分が現役のうちに瀬戸大橋が開通して、宇高連絡船が廃止されるとは夢にも思っていなかった。
 ←宇高連絡船讃岐丸
とにかく、こうして(?)、村井さんの宇高連絡船との深い付き合いがスタートしたのである。



私は以前から船長さんに会ったら、どうしても聞いてみたいことがあった。
海上を南北に奔る船、東西に奔る船、特に瀬戸内は様々な種類のたくさんの船が常に航行している。
もちろんルールはあるだろうが、海上では陸上のように交差点用の信号もないし、狭い瀬戸内海をこれだけの船が行き来して操縦は大変ではないのだろうか?小型の船ならともかく、大きな船の操縦ともなるとかなり大変なのではないだろうか?
というばかばかしい幼稚で素朴な質問である。

「やっぱり大変ですよ」村井さんは答えてくれた。「新米の頃は、上手く横切る勇気がなく、安全の為にかわしながら進んでいると、どんどん明後日の方向に進んでいって、先輩に『どっち向いて進んでるんや!』と言われたこともありますね」

また、「船以外にも瀬戸内海には漁業用の網がたくさんありますから、その網を切断しないように、くねくねと、まるで迷路を通るように進んでいかなくてはならない」ことも多々あったとのこと。

宇高連絡船と通常のフェリーとの大きな違いは運航時間の制約。
宇高連絡船の場合は、列車との接続があるため、厳しい定時運航が原則。
出港の遅れがでれば、安全に留意してできる限り運航中にその遅れを挽回しなければならない。
単にスピードを上げれば良いというものではなく、海上を運航する連絡船は地上と比べると気象をはじめ、様々な条件があり簡単にはいかない。
わずか数分の遅れを取り戻すには、かなりな操縦技術を要する。
海上での運航のほか、港口と桟橋間の操縦も大事なポイントとなる。
実に大変な仕事である。

あと、「外国航路の時と連絡船の時の大きな違いは、やはり乗客に対する責任感ですね。外国航路の時は、沈没しても自分達乗組員だけですから、各自がそれなりの覚悟をして航海していますが、連絡船の場合は乗客の安全に対して絶対的な責任がありますから、プレッシャーが全く違います」村井さんは真剣に話した。



宇高連絡船といえば、切っても切れないのが、映画「UDON」の中でも熱く語られていた船内の「讃岐うどん」。

宇高連絡船の讃岐うどんというのは特別で、うどんの味もさることながら、乗客ひとりひとりが必ず思い出すエピソードを持っている場合が多い。
新婚旅行の際に二人でルンルン気分で食べたうどん、就職や進学で故郷讃岐を離れる時に食べたうどん等、連絡船のうどんには人それぞれの様々な思い出のシーンを蘇らせる特別な力がある。

村井さんが「讃岐丸最後の船長」として、瀬戸内海の主要港を「さよなら航海」した時にも、必ず聞かれるのがこの「連絡船の讃岐うどん」のことだ。

当時、高松の4大うどん屋さんからうどんを仕入れて営業していたそうだが、ピーク時にはなんと、1日1万食以上で200万円以上の売上があったそうだ。

そして、なんと、船員達の食事も1日2食はうどん。
船員一人当たり月間30食以上はうどんを食べていたことになる。

「村井さんも乗客と同じうどんを食べていたのですか?」
「いや、私たち船員は別のうどん屋さんに頼んでましたね。これがまた旨くて、非番の日でもよく食べに行きましたよ」

船員さん達が愛した思い出のうどんがあったのだ!
(※このうどんの情報が知りたい方は、連絡船のうどんにまつわるエピソードとともにメールをお送り下さい。お送り頂いた方にはこっそり情報をお知らせします。)



「連絡船は、今はどうなっているのですか?」
「うれしいことに、4杯(讃岐丸、阿波丸、伊予丸、土佐丸)とも現役で活躍してますよ」

売却されはしたものの、現在は4隻ともに東南アジアなどで現役として活躍中。
以前の連絡船のファンの中で、海外まで出かけて、その雄姿をカメラに納めてくる方もいて、村井さんも時折情報を聞くこともあるそうだ。

宇高連絡船が廃止になった後も、讃岐丸は観光船として数年間活躍したが、赤字には勝てず、売却された。
この観光船としての讃岐丸の船長も村井さんが務めており、つまり、村井さんは「連絡船最後の船長」のほか「讃岐丸最後の船長」でもあるのだ。




幾多の思い出を載せて運んだ村井さんの宝物のひとつは、お客様からのお礼状である。

『母(66歳)は、貴船の鉄道車両格納部分を見て、昭和30年代、郷里の高松に帰る時、宇野高松間を鉄道連絡船を利用していたことを思い出し、いたく感激しておりました』

『40年前讃岐丸で主人と知り逢い、今では七人の子や孫に恵まれ、昔の連絡船を想い出す…』

現在、村井さんはJRを定年退職し、お孫さん達に囲まれて過ごされている。
機会があれば、お孫さん達を乗せて船に乗りたいとの思いも、勿論ある。

「海外の海と比べても、瀬戸内の海は素晴らしい。その瀬戸内海の素晴らしさを多くの人に楽しんでもらえればいいのですが
。」
連絡船の船長時代の写真に写っている村井さんも凛々しくかっこいいのだが、私にはそう答える今の村井さんの方がより船長らしく、よりかっこよく感じられた。

最後の船長(ラスト・キャプテン)の航海はまだ終っていない。



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