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空海と藤原北家

弘仁4年、空海は、正月から夏にかけて、南円堂を建立するために奔走します。

嵯峨天皇の側近で名門貴族である藤原北家の後継者・藤原冬嗣が空海のもとにどうしたら家が隆盛するだろうか、と空海に相談したことがきっかけでした。

この頃、藤原家は北家、南家、式家、京家の4家に分かれ身内で勢力を争っていて、北家の権勢は弱まっていたのです。

空海は、藤原北家の菩提寺である興福寺に八角形の堂を建立すれば、家は栄えるとアドバイスし、自らが建物を設計し、奈良へ行った時には工事を監督し、空海自らのみを取って仏像を彫るなどしました。

この南円堂は、建立についてのいっさいを空海自身がやった最初のものであり、小規模ながら当初から密教式につくられた最初の堂でした。

それから間もなく、藤原冬嗣は右大臣となり、藤原北家の家運はめざましく隆盛しました。
藤原冬嗣の手腕によるところも大きいですが、以後、藤原北家は空海に対して格別な敬意をもつようになったとされています。
その後も、藤原冬嗣の娘は神明天皇に女御として仕え、後の文徳天皇を産み、さらにその子が清和天皇に即位し、冬嗣のひ孫である藤原道長の時代になると権力を一手に握り、藤原北家はこれまでにない全盛時代を迎えることになりました。

空海の評判は都でもどんどん有名になっていきましたが、空海自身は自分の母系から出た先の玄ムの失敗を意識していたのか、政治家との関係には必ず溝を設けていたようです。



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