空海、京に入る
朝廷の太政官から和泉の国司に対し、「京都に住まわせるため、空海を京にのぼらしめよ」という官符が下りました。
朝廷では、桓武天皇が崩御し、その後の平城天皇が病のため譲位し、嵯峨天皇が即位していました。
京に入った空海は高雄山寺に住することとなりました。
この高雄山寺は、最澄が唐から帰国後に天台宗とともに齎した密教の最初の灌頂を行った場所でした。
そういった状況を把握した上で、最澄に対して空海を立ち向かえさせるべく、奈良勢力の高僧達が根回しをして空海の住居として高雄山寺を選んだのははないかという説もあります。
最澄の弟子経珍が「密教の経典を貸して欲しい」という手紙を持ってやって来たのは、空海が高雄山寺に入って間も無くの頃でした。
諸説はいろいろありますが、これが、空海と最澄との最初の手紙のやり取りだったと考えられています。
最澄はこの時期、奈良六宗に対してはかなり戦闘的だったようですが、空海に対してはそういったこともなく、むしろ空界がもたらした密教の正統性を理解して敬意を表しているといってもよいぐらいの態度だったようです。
現実、この最初の手紙の最後には「下僧 最澄」と書かれていて、当時としては高位の者がへりくだるというのはとても珍しいことだったようです。
このあたりに、自分の弟子に対しても虚勢を張ることがなかったといわれる最澄の人柄が出ているといわれています。
なお、残念ながらこの最初の手紙に対する空海の返事は残っていませんので、その内容はわかっていません。
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