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季刊誌「麺の世界」
編集長 奥山忠政
空海とうどん/特別企画

特別企画大宰府の空海

【特別企画】大宰府の空海
〜讃岐うどんをもたらしたのは、はたして空海か?〜

讃岐うどん起源考 大宰府の空海(草案)

(一)真魚
(二)東長密寺

 前年、大同元年(806)10月、33歳の空海は唐から帰国し、那の津に上陸した。当初、定めにしたがって湾の西の丘陵にある鴻臚館に入った。鴻臚館は大宰府政庁の外交事務や海関業務を扱う機関であるとともに、公式出入国者の宿泊施設を兼ねていた。しかしながら空海にとって持ち帰った膨大な品々を管理するには不便であった。場所をとることがはばかられるだけでなく出入りの者が多く、目を離すことができない。


 空海は館の東に広がる入り江を渡って対岸の息の浜(のちの沖の浜)に上がった。一帯は埋立地につくられた船着場で、内外の私貿易船で賑わっている。いくつか船宿を尋ねるうち、多度津の佐伯の荷を扱ったことがあるという一軒に行きあった。船宿は荷扱い業も兼ねていたのである。交渉のすえ、倉庫の一つを買い上げることができた。
 
 荷は牛車で運んだ。今日の地図で示せば、鴻臚館は中央区大濠の福岡城址、倉庫は博多区奈良屋町にあり約3キロの距離だが、当時陸路で行くには、入り江に沿って南に下り、今日の平尾あたりから東に向かい、美野島〜住吉を経て博多駅付近から大博通りに入って呉服町に至る。陸地はそこまでで、対岸の息の浜へは橋を渡った。おおかた一日はかかったであろう。
 経典・仏画・法具を収めた倉庫に、空海は『東長密寺』と名づけた。「私寺」というほどもない建物だったが、本朝に本格密教をもたらす最初の拠点であるという自覚があった。後年、空海が初めて開いた寺院として知られるようになる。なお、寺はいったん戦火で焼失したが、黒田藩二代目藩主・黒田忠之によって現在地(博多区御供所町)に『東長寺』として移築されている。

 空海が先ずせねばならなかったのは、『御請来目録』の作成であった。経典・経論だけでも216部461巻というから、これらを10日ほどで整理・記録するには不眠不休だったにちがいない。10月22日京に向けて発つ大使・高階真人遠成に託すことができた。
 『目録』には「表」が添えられ、以下の趣旨が記されていた。長安で恵果和尚とめぐり会って師と定め、未だ学ばざるを学び、稽首接足して聞かざるを聞き、新しい教えを伝授されたこと。この教え(密教)は成仏の筋道であり、真言の功徳によって、人びとは安楽で幸福に暮らすことができること。任期をまっとうせずに帰国したことは死にも値するが、新訳の経典や両部の大曼荼羅と仏像などを生きて持ち帰ったことをひそかなよろこびとしていること。

 上京する一行を見送ると、故郷多度の佐伯宗家、京都の阿刀大足叔父、奈良・大安寺の勤操師に帰国を知らせた。

(三)観世音寺に続く


本サイトは『麺の世界』奥山忠政編集長と共同で、物語「大宰府の空海」のネット制作に挑戦中です。

上記は奥山忠政編集長による第1回目の粗筋(草案)になります。
時代考証を含め、皆様からのご意見・アイディア等お待ちしております。
下記の条件をご承諾の上、お気軽にご参加下さいませ。
メールを送って頂いても結構ですし、、「大宰府の空海」専用ブログに書き込んで頂いても結構です。
よろしくお願いします。

応募(参加)条件は以下のとおりです。

(1) 粗筋に直接・間接関連する史料などを具体的にお示しいただくこと。
(2) 「物語」としてのアイデイアや遣り取りの具体案をご提案いただくこと。
(3) 構成・執筆は奥山忠政氏にご一任いただくこととし、著作権の同氏帰属をご承認いただくこと。(権利関係を複雑にしないためです)
(4) 著作物にはご教示やアイデイアをいただいた方々のお名前を記載します。
(5) 制作の途中経過は随時公開します。

                       2007年10月14日 初代先達 真魚



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