【特別企画】大宰府の空海
〜讃岐うどんをもたらしたのは、はたして空海か?〜
讃岐うどん起源考 大宰府の空海(草案)
(一)真魚
(二)東長密寺
(三)観世音寺
那の津は貿易港として開けていた。新羅の交易船が多かったが、唐船もあった。船宿あたりは賑やかで、酒色をひさぐ店もあった。空海とともに帰国し鴻臚館にとどまっていた橘逸勢が、退屈しのぎに訪ねて来たこともあったであろう。
空海にすれば不安だった。盗難と火災である。不安をはね返すように、空海は朝夕声高に読経・勤行した。
師走も近い小春日和のある日、空海は大宰府に向かった。那の津から東の官道を10キロほど南下すると左に古代の山城・大野城が見え、しばらく行くと水城の大土塁に至る。東門をくぐるとやがて左の丘の上に国分寺が見えるが往時の面影はない。
国分寺の丘の麓をまわって東に向かうと右(南)に条坊の整った街並みが見えた。長安とは比ぶべくもないが、懐かしさがこみ上げてきた。ほどなく左に政庁の大官衙が現われた。白村江の敗退(663)のあと唐の襲来に備えて海岸線から後退し、大野城と水城に守られたこの地に移されたもので、「遠の朝廷」にふさわしいきらびやかな甍が連なっていた。
帥(長官)は従三位の高官だった。空海の表敬を受ける立場だが、はた目には対等の者同士の座談に見えた。空海が意識して尊大に振舞ったのではなく、生来の性格と両部密教の正統を継いだという矜持が自然にそうさせたのである。のちに嵯峨天皇と、あたかも友人同士のような交わりをしたことからも想像がつく。
空海の用件の一つは、上京の遷延を釈明し、いましばらく滞在することの内諾を得ることにあった。大宰府の1年余を、20年の留学を2年で切り上げた「闕期の罪」による謹慎蟄居とする説があるが、それは表向きの理由であって、実際は、桓武天皇の崩御にともなう京の政情不安や、最澄の動きを見極めるところにあった。二義的には、密教理論を整理し日本の風土に合わせて再構築する作業の時間を要したという事情もある。結果的に、この地は「真言宗」の胎動期を用意したことになる。
もう一つの用件は、観世音寺の経蔵を借りるとともに、自身が仮住まいできるよう計らうことだった。
観世音寺は天智天皇が母斉明を追善するために創建した由緒深い官寺(746年完成)で、天台宗に属したが、この時点でこだわりはなかった。政庁の東の樟の木立の中に荘重な伽藍があった。
いずれの用件も首尾よく目的を達することができたのは、空海の名声と、もたらした事蹟がすでに知られていたことによるであろう。
(四)日本密教に続く
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2007年10月15日 初代先達 真魚
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